霧島の日記(完結)

書く理由がなくなったので完結しました

2017.3.6

月曜日。

 

夜中に謎の腹痛で目が覚めた。しばらくしたら収まって、気付いたら朝だった。なんだったのだろう。夜中に急に具合が悪くなるの怖い。日中、おなかを冷やしたのかもしれない。

 

労働。何のために働いているのか、といったことを考え出すとどうしようもなくなる。ただ求められている役割を演じているだけで、やりがいだとか使命、責任なんて知ったこっちゃない。金銭のために正しく演技をしているだけ。それでも、演技が正しいので成り立っている。やりたくないことをやって、金銭を受け取っている。それだけ。

 

久しぶりにジャムセッションへ。学生ホストで客も少なく、最初は冷え冷えとしていたけど、だんだんと人が集まってまあまあ盛り上がった感じ。たまたま行き合った知り合いと駄弁るのが楽しかった。気心知れた仲間との会話がいい慰みになる。

 

こうやって日々心を満たし、苦しみを忘れさせてくれるものがあるのなら、いっそあの人のことは忘れてしまった方が幸せなのではないかという考えがよぎった。心の隙間を満たしてくれるものを求めるがあまり、それが却って孤独や苦しみを強めている。

あれからひと月が過ぎた。彼女の気持ちもわからないままだし、今後どうなるかもわからない。ただ苦しいばかりの時を過ごし、果たしてこれが何になるのか、自分でもわからなくなってきた。彼女に会って、顔を見て、声を聞けば、すぐさま恋心が戻るだろう。だが、今はもうなんだかよくわからないし、どうでもいい気分になりつつある。会わないでいるということは、怖いものだ。

沈黙の一か月を不誠実だとは思わない。しかし、それは理性の上でのことであり、本心ではつらく長い待ちに不満を感じている。だが、彼女には彼女なりの状況があり、こちらのわがままばかりが通用するわけではない。理性と動物的な本能が葛藤を起こしている。

2017.3.5

日曜日。

 

11時起床。憂鬱な目覚め。寝起きはいつも悪いが、最近は特に。スマホをチェックして何の連絡も入っていないことを確認し、ブルーな気分になる。ないと分かってはいるけど、もしかしてあの人から連絡が入っているかも、という淡い期待があり、その分つらい思いをするのだ。

 

昼過ぎに家を出て、東京青山に向かった。今日は菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールの公演初日だった。本当はあの人と一緒に観に行くつもりだった。しかし、それも叶わず。だが、他の誰かと行く気にもならず、一人で観ることにした。

いつも素晴らしいペペではあるけど、今日の演奏は特に冴え渡っていたように思う。緊張感やキレ、アンサンブルのバランス。バンド名の示す通り(色男による砂糖漬けの拷問→ダンス性の強い演奏を着座で聴かせ、踊りの欲求を抑圧する仕打ち)、踊りたいのに踊れないというコンフリクトがもたらさた。

演奏はMCなしで1時間半目いっぱい行われた。アンコールもなかった。限られた時間を善き音楽で最大限満たそうという音楽家の矜持を感じさせた。

美しい演奏を聴いている間は、日常の憂鬱や辛苦を忘れることができた。苦しみや悩みに対して、直視しない、忘れるということもまた抗いの手段である。ここの所、自力ではどうすることもできない苦悩に対してまともに組み合い、不必要に自分を傷つけていた。今日の演奏を聴いて、そんなことを思った。しかし、だからといって、人生から憂鬱を取り除けるとは思わないが。痛みと共に生きていく宿命だ。

2017.3.4

土曜日。

 

たっぷり寝たが、それでも回復しきらない。生活習慣の見直しが必要だが、早寝早起きというのをやったことがないので、やり方が分からない。

 

ペルソナ5をプレイ。全コープレベル最大で9股を目指しているけど、現時点で一人に振られてしまっているので、断念。振られるとかあるんだ、という気づき。スーパーモテ男でも振られることがあるらしい。

 

散歩。今日は晴れていて散歩日和だったので、その辺のおじさんおばさんも散歩していた。僕は他人の近くを歩きたくないので人を避けていたら、思うようにルート取りができなかった。狭いところをすれ違ったり、人の後を歩くのは嫌なのだ。

 

量子力学の入門書を読み切った。ぼんやりと雰囲気は伝わってきたけど、非常に浅いところで易しく説明している感じで、全く分かった気になれない。しかし、あまり難しいところまで潜っていく気概もない。今度は相対論か素粒子のことでも読もうか考えている。それも入門止まりになるだろうけど。

 

昨日のリハの録音を聴き返した。自分の演奏を聴き返すのはいつになっても厳しい。仮に目立ったミスがなかったとしても、改善の余地はいくらでもある。愚直に練習に勤しむしかない。

 

待てど暮らせどあの人からの返事は来ない。この調子では待っていても埒が明かない。今度会う時にどんな調子か聞いてみよう。これはこれで告白とは違った怖さがある。最悪なのは、断り文句を考えるのに手間取っていたとか、面倒くさくなって放置していたとか、そういう類のことだ。だけど、そういう不誠実を平気でやる人とは付き合いたくないし、そういう人ではないと信じている。もしそうであったのなら、相手を間違えたということだ。

キープだとか、複数人から迫られているだとか、元交際相手ともつれているだとか、そういう状況で計算高さや姑息さを発揮するのも人間ではある。だが、そんなのは下衆のやることだ。理解はできるが共感はできない。

2017.3.3

金曜日。風強し。

 

朝起きるのがつらい。夜、目いっぱい何かをしてやろうと思ってしまうので、いつも夜更かし気味だ。「今日もこれしか本を読めなかった」といった類の感覚がいつもあり、寝る時間を削ってでも余暇の質を向上させようという気になってしまう。しかし、それはトータルで考えた時、あまりプラスになっていないのかもしれない。もっとちゃんと寝て、摂生に努めれば、日頃の気分から改善すると思う。

 

一日労働。寝不足の疲労と眠気に耐えながら。新人の頃はこれを耐え難い苦痛だと思っていたけど、今は慣れもあって何とか乗り越えられる。だけど、これは絶対に身体に悪い。食生活とか運動習慣の見直しに先駆けて睡眠習慣を改善させなければならない。といったことは、中学生くらいの時から思っている。

中学生で夜更かしを覚え、以来完全なる夜型人間となった。僕が思うに、夜型人間というのは、入眠困難などの睡眠障害に対する不安があり、寝ること自体を正常に(社会が要求するように)コントロールできない人間なのだ。

今でこそ労働者として、正しく起床し、正しく通勤し、正しく労働に勤しんでいるが、通常期待される健康的生活とはちょっと違うと思う。2時寝7時起きの5時間睡眠を5日間続けて、金曜の夜には(まさに今)ふらふらになっているのは、理想的ではない。とはいえ、健康的生活とプライベートの質的向上の両立を図るのは容易ではない。

個人的感覚として、労働とは金銭以外の全ての機会の逸失であり、失われた機会を取り戻すことこそがプライベートの質的向上に他ならないと思っている。働くために生きる、というのは受け入れがたい。労働に人生を奪われることに対して、常に反抗していたい。労働者として飼い慣らされて、労働者の地位に甘んじれば、それは死なのだ。やりがいだとか、仕事を通じての自己実現なんてファックである。替えの利く雇われ仕事でそんなことを考えるなんて、どうかしている。

 

夜は演奏会のリハーサル。今日が最後。後は本番のみ。まあまあの仕上がり。お金は取らない軽いやつなので、これで十分だと思うけど、本当は細かいところをまだ詰められると思う。音楽は果てしない。

 

リハの後は食事。他愛ない会話。それでも十分な慰みになる。(人生上のいろいろな)問題は何も解決していないけど、誰かがそれを知っていてくれるだけでいくらか救われる。

2017.3.2

木曜日。時々雨。

 

いつもと変わらぬ労働。面倒事はまあまああったけど、大事に至らず処理。

 

昼休みは昼寝。のはずが、あの人の名前をネットで検索したら心がざわついてしまって、眠れなかった。疲れているのに。

 

午後はあの人の事が頭から離れず、集中力も切れてぐだぐだに。別に作業を急いでいるわけでもないので、こういう日があっても大丈夫ではある。勤め人としてはちょっとどうかと思うけど、いつでも健康な肉体と精神で仕事に向き合えるわけでもない。そういう日もあると割り切る。

 

帰宅後は楽器の練習。明日はリハなので。気分はあまり乗らなかった。

 

夕食後は散歩。またいつもの神社に。誰もいない夜の静かな神社に佇むと安心する。誰にも、何にも邪魔されない。

 

告白からそろそろ一か月が経とうとしている。返事に期限を設けなかったし、返事の約束もない。障害となっているのは彼女の傷心。彼女が癒えたとして、それから彼女の気持ちが僕に向かうのか、何の保証もない。ただ待っているだけだ。今、彼女がどんな状態にあるのか、何もわからない。

この間、一度だけ顔を合わせたが、この件については触れなかった。上辺は何ともなさそうに見えるのだ。誰しも、上辺だけは何ともなさそうに振る舞うことができる。他人が内に何を抱えているかなんて、ほとんど何も知らないままでいるのだ。

このまま待っていても埒が明かなければ、こちらから動く必要がある。それを考えるのも気が重い。その行為が、わざわざ振られるための言葉を引き出すきっかけになるかもしれないと思うと、つらい。ただ、再度顔を合わせる機会があるので、どうなろうとも、その機会をものにしなくてはならない。

今、僕の心の内にある希望は、タロットスプレッドで出た星のカードだけだ。そんなものしかすがるものがない。人の心はままならない。そうと分かっているのに、それを何とかしようとして苦しむのは、悲しい人間の性だ。

2017.3.1

水曜日。3月。暖かくなり始めている気がするが、それはそれでしんどい。

 

単調なデスクワーク。目は疲れるし、座りっぱなしなので健康リスクを感じる。

午後は休み。帰って寝たら、妙にはっきりした夢を見た。しかし、あまり疲れは取れない。

 

量子力学の本の続きを読んだ。量子力学を応用することで、計算機の高速化、暗号通信の改良などができるらしい。だんだん理解が追い付かなくなってきた。数式も使われない、極めて平易な入門書であるけど、わかったようなわからないような、そういう感じ。

 

ニコニコ動画のブロマガにビュロ―菊地チャンネルというものがある。音楽家の菊地成孔さんが運営する有料チャンネルだ。僕はそこに投稿されるコンテンツを見たり見なかったりするのだけど、今日は彼のバンドの一つであるペペ・トルメント・アスカラールの大阪公演の記録動画を観た。来週には東京青山でも演奏される。

ペペを初めて観た時の衝撃は、今までの音楽生活の中でも相当なものだった。聴きたいと思っていた音楽がそこにあった感じだ。ぼんやりと探し求めていたけど、辿り着けずにいた音楽に出会った。まさに邂逅。

人や作品との出会いは不思議なもので、必要な時に必要なものと出会ったり、あるいは全く出会えなかったりする。ただ大事なのは、何かを必要とする気持ちと、それに巡り合えるように祈りを捧げることだ。出会いは偶然かもしれないが、でたらめではない。

ペペは是非とも意中の女性と観に行きたかった。ペペを観るとき、一人であったり、あるいは誰かと一緒だったり、いつもいろいろだが、誰と一緒であるかで感想が変わる。一番素晴らしいのは、やはり好きな人と二人で観る時だ。同性のごりごりの音楽ファンと観るのも結構だけど、僕の中ではこれはそういうバンドではない。

 

学生時代は音楽仲間とライブを観に行くことが多かったけど、社会人になってからは一人で出かけることが多くなった。気の合う友人が減ったというのもあるし、下手な人と一緒に行くより一人の方が楽しめるというのもある。しばらくは自分の思うままに遊んで回って楽しんでいたけど、だんだん孤独な気分も増してきた。誰でもいいわけではないけど、誰かと同じものを楽しみたいという気持ちだ。

今、返事を待っている女性は、まさに僕が探していた人で、行動力があり、アート感覚も持ち合わせている。音楽を聴いたり、映画を観たりして、一緒に楽しめる人だ。そういう人以外には、正直に言って興味が持てない。付き合ったとしても、譲歩が続いてぎこちなくなってしまう。一人でいるように自由で、大勢でいるように楽しい人。自分にとってそう思える人が、いったいどれだけいるだろう。

2017.2.28

火曜日。

 

退屈なデスクワーク。平常運転。事件事故なし。

朝、おなかが痛くてつらかった。疲れからか、あるいは夜にジャンクフードを食べたからか。通勤途中の腹痛は、けものの本能を目覚めさせる。

 

軽い残業(暇なのに残らないといけないことがある。不思議!)の後に何か美味い物を食べに行こうかと思ったけど、早く帰りたいのと、おなかを慮ってうどんにしておいた。普通。

 

今日はタロットについて、本の続きを読んだり、スプレッドを試したりした。恋愛について占った。結果は悪くはないが、忠告や助言が多い感じだった。今回は5枚のスプレッドだったけど、前回の10枚のスプレッド同様、感情に振り回されないよう忠告された。それに、苦境にあることも指摘されている。ありがたいんだか、つらいんだか。

 

量子力学についても軽く読んだ。重ね合わせ、量子コンピュータ。こちらも常識ではにわかに受け止めがたい突飛な世界である。

例えば、二つのスリットが入った板に向かって光子(光の粒子的なもの)を一つ飛ばすと、どういうわけか光の干渉縞が生じる。それは、光子が起こりうる可能性を全て実現するかららしい。つまり、一つの光子は二つのスリットのどちらも通過し、その結果、光の干渉が起きて干渉縞が発生する。光子を一つしか飛ばしていないにもかかわらずだ。

量子は、起こりうる可能性を全て含んだ状態(重ね合わせの状態)にあり、その状態が分離されない限り、全ての可能性の通りに動作するという。なぜかはわからないが、そういうものだからそう理解しろ、と書いてあった。意味わかりますか?このあたりの発想にタロットへの応用可能性を感じる。