霧島の日記(完結)

書く理由がなくなったので完結しました

2017.3.13

月曜日。

 

労働。月曜は死の曜日。憂鬱が充満せし、死の曜日である。青は藍より出でて藍よりもブルーな月曜日。

 

昨日のことをずっと考えていた。悲喜の入り混じった複雑な感情。彼女は迷っている。僕はもう待つだけではなく、攻めていきたい。受け身でいて、ただ結果を待つだけというのはつらい。永遠にも思われる一か月を過ごし、そのつらさに耐えかね、彼女にはその心の内を明かした。彼女もそのことは分かっていた。迷う彼女を押せば、状況は変わるかもしれないという抑えがたい期待。

 

何となくまたお笑いDVDを借りてみたけど、全く観ようという気が起きない。こういう破綻した行動は何なのか。

 

久しぶりのケルト十字スプレッド。重大にして強力なスプレッドであるように感じているので、そう頻繁に実行するべきではないと思うが、彼女との状況が動いたので、改めて展開する意義があると判断した。内容としては全体的にぼんやりした感じになったけど、要所に恋愛や好意に関するカードが出現し、なかなかの共時性を示している。

一応記録までに。1、カップのクイーン。2、教皇逆位置。3、ソードのエース。4、カップの4逆位置。5、ワンドの10。6、ペンタクルのナイト。7、恋人たち。8、ワンドの3逆位置。9、カップの8逆位置。10、ソードの6。

多分、心をオープンにして、能動的に行け、という助言だと思う。というか思いたいけど、自己リーディングのバイアスかも。

リーディングに勤しんでいたら、結構な時間になってしまった。摂生はどこに行ったのか。

2017.3.12

日曜日。晴れ。

 

昨日は夜中まで活動していて、寝たのもかなり遅かったのに、平日の出勤時間に目が覚めた。悲しみ。とはいえ、単なる習慣ではなく、意中の人と会う約束があって、緊張感やら何やら複雑に入り混じった厳しい感覚のせいでよく眠れなかったのだと思う。

何度も寝なおして、その都度鮮明な夢を見た。雪の積もった坂道を後輩と駆け上がったり、タロットカードに傷をつけた母親に憤慨したり、夜道を先輩と走ったり。夢を見ている間は極めて真剣なのだが、時間が経ってから考えると、ただただ馬鹿げている。

 

布団干す。散歩行く。ロトくじを換金する(千円当たる。収支ゼロ円)。ゲーム。読書。楽器練習。

 

夕方からはあの人と会っていた。交際の可否を悩んでいる心境について話を聞かせてもらった。いろいろな現実的問題や状況などがあることもそうだけど、根っこには優柔不断さや、拘束嫌い、誓約嫌いがあることがそこはかとなく分かった。話をしっかり聞かせてくれる誠実さと同時に、天真爛漫というか、不安定な内面があることも感じさせ、少々の危うさを秘めているようだ。それは誰にでもある内面的葛藤であり、また、自意識と他意識の差から生じる思い込みや、イメージの押しつけの結果でもある。

それでも、今までよりさらに彼女のことを知ることができた。それを望んでいたわけだし、これは別に悪いことではない。相手のことを知るのは必要なことだ。

返事はまだ保留されている。ただ、心のつかえが少しとれて、多少は清々しい。彼女もそう言っていた。これからどうなるのかよくわからないけど、とりあえず今日のところは良しとする。

2017.3.11

土曜日。晴れ。

 

演奏会。朝から支度をして、機材の準備や音響の確認。

相方はまだ経験が浅めなので、リハではそれなりでも、本番でアガる、イキる、トチるといったことがままあるけど、今日は落ち着いて演奏できた方。その代わり、客席の反応もあまり熱い感じではなかったので、今日はあまり受けてないのかなと思った。が、後で話を聞いた感じでは、しみじみと楽しんでもらえていたようなので、よしとする。客の反応がつかめない時というのは、なかなかしんどいものがある。自分の演奏を信じてはいるけど、それも絶対ではないし。

 

意中の人と行き合い、久しぶりに話をした。返事を待っていたこの一か月、どんなことを思い、考え、どんな風に過ごしてきたか、話を聞かせてくれた。そして、僕も同じく思いを伝えた。彼女の言葉、表情からは誠実さが伝わってきて、返事を待っている間のつらさ、苦しさも少しは報われたというか、慰められたような気がした。

明日は二人で会って、話をすることになった。まだ手放しに喜べる状況ではないけど、意義ある前進ができたと思う。とりあえず、待つだけの状況から解き放たれた。心境はまだ複雑だけど、事態は好転していると思う。

 

今日はいろんな人と交流をして、楽しくもあったけど、社交エネルギーを大量に消費したので、疲れた。音楽のことを真面目に話す場面もあったので、真剣に考えながら話したけど、話しながらだんだん手がしびれてきたのだった。頭は使うし、話していてちょっと酸欠気味になったので、そのせいだと思う。今もちょっとしびれているし、完全に疲労が原因である。嬉し悲し。

2017.3.10

金曜日。

 

労働。淡々と。眠気と疲れに耐えて。

昼休みには軽く本を読んで、昼寝。

夜は職場の若衆で飲み会。案外荒れなかった。

 

帰宅後は演奏会に備え、楽器などの準備。軽く演奏してみたが、まだ煮詰める余地があると感じた。どれだけ練習しても十分だということはない。

 

明日はあの人と顔を合わせる機会がある。正直、どんな顔をして、なんて声をかけたらいいかわからない。二人の関係がどんな風に展開するのか、予想がつかない。緊張する。もうこれ以上つらい思いはしたくないのだけど、もしかするとさらに身を引き裂くようなつらい展開もあるかもしれない。あるいは、思いもよらない幸福なことがあるかもしれない。ただ、こうしてあれこれ考えていてもどうしようもないし、ただ黙って待つだけの日々から解放されるのなら、それは喜びと考えてもいいのかもしれない。

 

眠気と疲れから、日記は省エネ。エコ。ロハス

2017.3.9

木曜日。

 

労働。悲しみがマネーに変換される驚異的なシステム。

 

帰りに何か間食して帰るのが幸せだけど、不健康な幸せだ。快楽をもたらすものは不健康なものが多い。身体に悪いものは楽しいのだ。しかし、ならばなぜ労働は楽しくないのか。早くも壁にぶち当たってしまった。

 

タロットスプレッドの順列組み合せについて考えていた。タロットデッキは78枚から成る。カードの上下の向き(正位置と逆位置)についても考慮に入れるので、組み合わせは驚くほど多い。例えば、1枚だけ引くとすれば、78(枚)*2(正逆)の156通り。2枚なら78*2*77*2の24024通り。引く枚数が増えるごとに組み合わせは乗数的に多くなる。だから、スプレッドの一回一回は一期一会のような、とてつもないカオスの中からもたらされるギフトである。同じ結果と二度も巡り合うことはないだろう。これは神秘的であるが、だから信用に値しないということではないと思う。

 

相対性理論の平易な入門書を読んだ。タロットきっかけで量子力学について読んだばかりだが(レイチェル・ポラックという有名なタロティストは物理学にも関心を寄せ、科学と神秘主義、あるいはオカルトとの比較論のようなものを披露している)、もともと相対性理論にも興味はあったし、ブラックホールのような天文学的現象についても関心がある。これらの研究は、人間の感覚的生活を遥かに超えた非常識さに満ちていて、常識や固定観念を破壊する刺激を与えてくれる。

 

久しぶりに筋トレ。最近はさぼり気味。しかし、デスクワーク主体で運動不足、体型も崩れてみっともないので、絞りたい意欲が高騰中。ベンチとウェイトを併用。腹筋、背筋、腕、脚を鍛える。上半身の鍛錬はデスクワークに耐える筋力(座位を維持するにも筋肉は必要)を増強し、下半身の鍛錬はデスクワークがもたらす循環器リスクの低下を望める。本当は有酸素運動と併用した方がいいし、こだわるなら回復期の計算もした方がいいけど、あまり凝ると面倒になってまたさぼってしまうので、適当がいい。それより、睡眠習慣を改善した方が遥かに健康向上を望めると思うけど。

 

明日も働かなければならないとは、なんて刑罰だ。労働の刑に処されている。

2017.3.8

水曜日。

 

労働。

職場では、やれ誰が結婚するだのといった話題で周囲が浮ついていたが、関心がなかったので全く触れずにいた。他人は他人。必要とあらば挨拶くらいはするけど、噂話はどうでもいい。他人の結婚も離婚も不倫も、どれも僕には関係がない。

そういう話題が出る時、いつもそこには軽薄な好奇心ばかりがうろついていて、他人の繊細な感情だとか機微だとか、そういったものがまるで無視され、ないがしろにされている雰囲気を見て、失望しそうになる。職場の人間は信頼すべきものではない。

 

帰宅途中、コンビニに寄り道。久しぶりにじゃがりこを食べたが、相変わらず美味かった。塩の強み。あと、いろはすの炭酸ぶどう味は取り立てて言うべきことがない。いろはすは炭酸ではあまり健闘していないイメージ。アロエ味はよい。トマト味はなかったことにされている。

 

楽器の練習。楽器の上手い下手は、技巧的な問題もあるけど、僕が思うには、演奏したいと思ったことを演奏しきれているかどうかが問題だ。タイミング、ニュアンス、ダイナミクス。そういう音楽上の要素を細部までイメージし、思ったままに音に変えられるかどうか。それが技巧を伴うものであれば、当然技巧を磨かなければならない。しかし、技巧は表面上の問題に過ぎない。大事なのは、思った通りに伝えられるかどうかだ。それでも、聴き手には好き嫌いがあり、それが壁になることもあるから、上手くいかなくてもあまり考えすぎない方がいいかもしれない。

 

ペルソナ5をプレイ。2週目はさくさく攻略できるかと思っていたけど、案外時間がかかる。

仕事終わりの余暇の過ごし方を考えるのは、重要な時間的資源をいかに活用すべきかという難問である。今日は果たしてこの過ごし方でよかったのだろうか。そうやって一日を振り返ると、なかなか厳しいものがある。時間に限りはあるが(命に限りがあるというのと同じこと)、いかにして生きるべきかということに対しては、簡単には答えが出せない。

2017.3.7

火曜日。

 

今日は休み。昼頃起床。総じて何もしない一日だった。疲れをとるにはそういう日も必要だ。

 

昼はペペロンチーノを自作。自分で作っておいてなんだけど、美味いので感心だ。本当は材料さえあればペスカトーレなどを作りたいところ。何せペペロンチーノは栄養バランスが悪いから。

 

楽器を練習。セッション後は練習のモチベーションが上がる。楽器の習熟に果てはない。それはしんどさもあるけど、終わりのないゲームみたいなものだと思えば、ずっと遊べてよい。

 

ゲームといえば、長年参加していたオンラインゲームのクランを脱退した。理由としては、ゲーム自体に飽きたからと、時間がもったいないから。最近は完全に義務感だけで参加していたので、ゲーム本来の目的から外れていた。単なる消費、浪費的態度でのゲームプレイに意義を見出せないので、潮時を感じていたのだ。課金をしてまで熱中する人々にとっては、よほどの価値や面白みがあって、ゲーム自体が目的たりうるものなのだろうけど、僕にとってはそこまでではなかった。

ゲームはやりたい時にやって、やめたい時にやめればいい。しかし、クランが絡むとそれでは済まないことがある。だが、ゲームにまで人間のしがらみに捕らわれるのは馬鹿馬鹿しい。

しかし、長年にわたって重課金勢の支援を受けていたのも事実で、一度もリアルなつながりを持ったことはなかったものの、辞めるのはなかなかしんどかった。単に一言挨拶をして辞めただけだが、本当の理由を述べるわけにもいかないので、当たり障りの無いように言葉を選んだ。まあ、辞めた今は清々しているけど。

 

最近はバンドを辞めたり、意中の異性に交際を申し込んだり、ゲームクランを辞めたりと、他人との関係を終わらせたり、一新したりするような、割と重大なことが続いている。ゲームは別に大した問題ではないけど、本質的にはどれも共通する事柄だ。これは単に外的な要因や環境の問題だけでなく、僕自身の心境が変化したり揺れ動いているからだと思う。共通していえるのは、感覚や感情を抑え込んだり、内に秘めたりせず、心のままに振る舞おうとしていることだ。この態度の良し悪しを判断するのは難しいところ。ただ、信条として不本意は避けたいと考えている。しんどい状況を受け入れるにしても、それが自分で決めたことであれば、まだ耐えられる。自分で選んでもないのに、ぐずぐずな状況を甘受することが耐えられないのだ。

もっと自由でしなやかでありたい。